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十月十三日銘の御本尊

 投稿者:サム  投稿日:2017年 4月 9日(日)13時25分14秒
  十月十三日銘の御本尊


17世日精上人記の「富士門家中見聞中」には
「日目は嫡弟と云ひ最初奉聞と云ひ旁た抜群の故に褒美として本尊を授与す其の端書に云く『最前上奉の仁、新田郷阿闍梨日目に之れを授与す一が中の一弟子なり、正慶元壬申年十月十三日日興在判』」(日精上人記「富士門家中見聞中」富要集5巻184頁)

48世日量上人記の「富士大石寺明細誌」に
「正慶元壬申年十月十三日 興師又本尊を書して師に与ふ其端書に云はく、最前上奉の仁新田郷阿闍梨日目之を授与す一が中の一弟子なり」(日量上人記「富士大石寺明細誌」富要集5巻327頁)

※「正慶元年十月十三日銘」の曼荼羅が書かれており、大聖人の祥月命日は「十月十三日」であり、日興上人御筆漫荼羅には、「十月十三日銘の曼荼羅」が多い様に思われるがどうか。


「次に本門戒壇の御本尊、寸尺、長四尺七寸五分、横弐尺壱寸七分、厚弐寸弐分御首題御勧請皆金薄入りなり、仏滅後二千二百廿余年等と云云、御端書、右為現当二世造立如件、本門戒壇之、願主弥四郎国重敬白、法華講衆当、弘安二年十月十三日云云、当山に之有り、又之に就て二箇御相承、又興師より日目上人に御遺状当之有り後体の為に之を書きおく者なり」(日因記 「有師物語聴聞抄佳跡上」富要集1巻251頁)

「一、本門戒壇の板大曼荼羅 一幅(中略)弘安二年十月十二日と、末代不朽の為に楠の板に書く厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分なり」(日量記 「富士大石寺明細誌」 富要集5巻334頁)


※宗門31世日因師(1687-1769年、江戸時代中期)により「楠板曼荼羅」の相貌が明らかにされたが、そこに「弘安二年十月十三日」とあり、宗門が大聖人出世の本懐として広宣する「弘安二年十月十二日」では無いのが不思議である。

そこで、下記に堀日亨上人が纏められた「漫荼羅脇書」より、大石寺本末分では16世法主の御筆曼荼羅までを、それ以外は日興上人だけの御筆曼荼羅を、「漫荼羅脇書」から「十月十三日銘」だけを抽出し、釈尊の生誕日である「四月八日銘」及び「楠板曼荼羅」の御図顕日とされる「十月十二日銘」と比較・検討した。
【No.X】は、柳澤宏道氏の「石山本尊の研究」に記載の座配番号を示す。


一、大石寺本末の分
日興上人御筆漫荼羅
1.弘安十年十月十三日  陸前 上行寺。【No.2】
2.(右下)正応三年十月十三日之を写す日興(十六枚の大幅)(左下)日目に之を授与す、 総本山御座替本尊。【No.3】
3.正応四年十月十三日、平の秀安に之を授与す、陸前 上行寺。【No.4】
4.正応五年十月十三日   同上。
5.正安三年十月十三日、奥州新田卿公弟子了性房日乗に之を授与す、 陸前、妙教寺。
6.正安三年十月十三日、新田三郎(五郎二郎、目師の兄)頼綱日善に之を授与す、同上。
7.嘉元二年十月十三日   同上。(筆者注:総本山)
8.嘉元三年十月十三日   陸前、妙教寺。
9.建治二年卯月八日、甲斐国下山平泉寺尼一円主の為、(後人の加筆)法円主、(後人加筆)延文二年十月十三日水口日信孫作五□(郎)に之を授与す、 総本山蓮蔵坊。
10.延慶二年十月十三日   陸前 上行寺。
11. 延慶二年十月十三日   尾張 興道寺。
12. 正和三年十月十三日   東京常泉寺。
13. 正和三年十月十三日、甲斐国蓮花寺□(前)住僧寂日房弟子式部房父□□□  東京、妙光寺。
14. 文保元年十月十三日   同上。(筆者注:陸前上行寺)
15. 文保元年十月十三日、□□□□□(南条大行)子息左衛門次郎所□□□□、 東京妙縁寺。
16. 元亨元年十月十三日   大阪 蓮華寺。
17. 元徳二年五月一日、八十五、き(紀)しん(新)た(太)いふ(夫)の□□□五郎太夫□子にさづけ(授)たぶ(給)ほん(本)ぞん(尊)なり、(後人加筆)土州幡太吉奈法華堂住侶□□□四事の功を以て授与□□、上野本応寺元徳二年十月十三日、加賀野宮内卿日□(行)に下し与ふ、(後人加筆)□□□日善に之を授与す、(後人加筆)□□□日教に之を授与す。  総本山。
(富要集8巻179-186頁)
(大石寺の興師御筆本尊十月十三日銘 17/79=21.5%)分数は記載総本尊数に対する当該本尊数(以下同様)
四月八日銘 6/79=7.6%、十月十二日銘 0/79=0.0%    当該本尊数/記載総本尊数

三祖日目上人御筆漫荼羅
1.元弘三年十月十三日、日目弟子大学民部阿闍梨日盛に之を授く、 陸前妙教寺。
(富要集8巻188頁)
(大石寺の目師御筆本尊十月十三日銘 1/3=33.3%)
四月八日銘 0/3=0.0%、十月十二日銘 0/3=0.0%

四世日道上人御筆漫荼羅
1.暦応元年戊寅十月十三日、奥州一迫多々次郎為重に之を授与す、 東京常泉寺。
2.暦応元年太才戊寅十月十三日、 陸前 妙教寺。
3.暦応元年十月十三日、奥州一迫三浦河東左近将監□行に之を授与す、 陸前妙円寺。
(富要集8巻189頁)
(大石寺の道師御筆本尊十月十三日銘 3/6=50.0%)
四月八日銘 0/6=0.0%、十月十二日銘 0/6=0.0%

五世日行上人御筆漫荼羅
(富要集8巻189-190頁)
(大石寺の行師御筆本尊十月十三日銘 0/8=0.0%)
四月八日銘 0/8=0.0%、十月十二日銘 0/8=0.0%

六世日時上人御筆漫荼羅
1.桧彫刻大聖人(等身御影裏書)敬白大施主、奥州法華宗僧俗男女、野州法華宗等僧俗男女、武州法華宗等僧俗男女、駿州法華宗等。嘉慶二年太才戊辰十月十三日、願主卿阿闍梨日時在り判、仏師越前法橋快恵在り判。  総本山。
2.応永九年壬午十月十三日、奥州一迫柳目住下慈阿闍梨日達に之を授与す、 陸前妙教寺。
3.応永九年壬午十月十三日、(有師加筆か)奥州一迫柳目住越前阿闍梨日栄に之を授与す、 同上。(筆者注:陸前 妙教寺)
4.応永九年壬午十月十三日、大石寺衆金井日栄に之を授与す、 下野蓮行寺。
(富要集8巻190-191頁)
(大石寺の時師御筆本尊十月十三日銘 4/29=13.8%)
四月八日銘 4/29=13.8%、十月十二日銘 0/29=0.0%

七世日影上人御筆漫荼羅
1.応永廿弐年十月十三日、富士大石寺檀那伊豆国三島住妙恵□、 総本山。
(富要集8巻194頁)
(大石寺の影師御筆本尊十月十三日銘 1/2=50.0%)
四月八日銘 0/2=0.0%、十月十二日銘 0/2=0.0%

九世日有上人御筆漫荼羅
(富要集8巻194-196頁)
(大石寺の有師御筆本尊十月十三日銘 0/22=0.0%)
四月八日銘 0/22=0.0%、十月十二日銘 0/22=0.0%

十二世日鎮上人御筆漫荼羅
(富要集8巻197頁)
(大石寺の鎮師御筆本尊十月十三日銘 0/9=0.0%)
四月八日銘 0/9=0.0%、十月十二日銘 0/9=0.0%

十三世日院上人御筆漫荼羅
(富要集8巻198頁)
(大石寺の院師御筆本尊十月十三日銘 0/5=0.0%)
四月八日銘 0/5=0.0%、十月十二日銘 0/5=0.0%

十四世日主上人御筆漫荼羅
(富要集8巻198-200頁)
(大石寺の院師御筆本尊十月十三日銘 0/11=0.0%)
四月八日銘 2/11=18.2%、十月十二日銘 0/11=0.0%

十五世日昌上人御筆漫荼羅
(富要集8巻200-201頁)
(大石寺の昌師御筆本尊十月十三日銘 0/11=0.0%)
四月八日銘 0/11=0.0%、十月十二日銘 0/11=0.0%

十六世日就上人御筆漫荼羅
(富要集8巻201頁)
(大石寺の就師御筆本尊十月十三日銘 0/1=0.0%)
四月八日銘 0/1=0.0%、十月十二日銘 0/1=0.0%

二、妙本寺久遠寺本末の分
日興上人御筆漫荼羅
1.嘉元三年十月十三日、駿河の国富士上方の庄□□□□□□□□□□、  同上。(筆者注:小泉久遠寺)
2.延慶二年十月十三日、越後の国孫左衛門の妻に之を授与す、  保田妙本寺。
3.正和三年十月十三日   同上。(筆者注:保田妙本寺)
(富要集8巻204-206頁)
(妙本寺久遠寺の興師御筆本尊十月十三日銘 3/13=23.1%)
四月八日銘 0/13=0.0%、十月十二日銘 0/13=0.0%

三、要法寺本末の分
日興上人御筆漫荼羅
1.正和三年十月十三日   松江妙興寺。
2.正中二年十月十三日、正忌日十一月十一日、甲斐の国下山兵庫五郎卅三年、子息又四郎義宗に之を授与す、 出雲妙伝寺。
(富要集8巻208-209頁)
(要法寺の興師御筆本尊十月十三日銘 2/14=14.3%)
四月八日銘 0/14=0.0%、十月十二日銘 0/14=0.0%

四、実成寺の分
日興上人御筆漫荼羅
(富要集8巻210-211頁)
(実成寺の興師御筆本尊十月十三日銘 0/2=0.0%)
四月八日銘 1/2=50.0%、十月十二日銘 0/2=0.0%


五、妙蓮寺の分
日興上人御筆漫荼羅
(富要集8巻211-212頁)
(実成寺の興師御筆本尊十月十三日銘 0/11=0.0%)
四月八日銘 0/11=0.0%、十月十二日銘 0/11=0.0%

六、法華寺の本末の分
日興上人御筆漫荼羅
1.元亨元年十月十三日、甲斐の国秋山孫次郎□(泰)□(忠)□□、 同上。(筆者注:讃岐法華寺)
2.嘉暦三年十月十三日、讃岐の国□□□□上蓮阿闍梨の弟子なり、 同 西山坊。
(富要集8巻213-214頁)
(法華寺の興師御筆本尊十月十三日銘 2/12=16.7%)
四月八日銘 0/12=0.0%、十月十二日銘 0/12=0.0%

七、北山本門寺本末の分
日興上人御筆漫荼羅
1.正応二年十月十三日、周防房に之を授与す、  同上。(筆者注:北山本門寺)
2.徳治二年十月十三日、□□□□二郎和□□□□□、  佐渡世尊寺。
3.正和元年十月十三日    同上。(筆者注:北山本門寺)
4.正和元年十月十三日    同上。(筆者注:北山本門寺)
5.正和三年十月十三日、甲斐の国蓮寺前住僧寂日房弟子式部房父□□□□、 同上。(筆者注:北山本門寺)
6.正和四年十月十三日、石河孫三郎能忠の女□妙円□□、 同上。(筆者注:北山本門寺)
(富要集8巻216-220頁)
(北山本門寺の興師御筆本尊十月十三日銘 6/37=16.2%)
四月八日銘 4/37=10.8%、十月十二日銘 0/37=0.0%


八、西山本門寺の分
日興上人御筆漫荼羅
1.正和三年十月十三日、三十三年の奉為に、(大聖人のなり)、  同上。(筆者注:西山本門寺)
(富要集8巻221頁)
(西山本門寺の興師御筆本尊十月十三日銘 1/4=25.0%)
四月八日銘 0/4=0.0%、十月十二日銘 0/4=0.0%


九、他教団に散在の分
日興上人御筆漫荼羅
1.延慶三年十月十三日、佐渡の国住人和泉五郎□□□、  阿仏妙宣寺。
(富要集8巻223-225頁)
(他教団に散在する興師御筆本尊十月十三日銘 1/16=6.3%)
四月八日銘 0/16=0.0%、十月十二日銘 0/16=0.0%


※結果、日興上人御筆漫荼羅には、「十月十三日銘及び四月八日銘」の曼荼羅が多い事が判り、更に、「四月八日銘」より、「十月十三日銘」が極端に多く存在する事が判明した。
そして、「十月十二日銘」の「歴代法主の書写本尊」は、全く存在していない事が判明した。
この事から、上古の法主の「書写本尊」には「楠板曼荼羅」の相貌が、全く影響しておらず、「楠板曼荼羅」が後世の模作である事が示唆された。
加えて、上記の「正慶元壬申年十月十三日銘」の日興上人御筆曼荼羅を見つける事ができず、現在、存在不明である事が明らかになった。

 
 

文永元年の紺紙金泥の御本尊

 投稿者:サム  投稿日:2017年 3月27日(月)08時06分5秒
編集済
  文永元年の紺紙金泥の御本尊


1.26世日寛上人の『観心本尊抄文段』より
「佐州免許は文永十一年二月、正しく仏滅後二千二百二十二年に当る。故に或は免許已後これを始めたまうか。救護本尊は佐州免許の年の十二月なり。然りと雖も、文永八年或は文永元年の御本尊これあり云云。更に検えよ。」
(観心本尊抄文段、日寛上人文段集451頁、聖教新聞社 昭和55年3月1日発行)

※免許已前の「文永元年の御本尊」を検証せよ、との遺言あり。


2.『観心本尊抄首日相聞書(岩城妙法沙門覚応日相)』より
「但し文永元年の紺紙金泥の御本尊当山に在り」
(31世日因上人記『観心本尊抄首日相聞書』富要集10巻7頁)

※この時点では、注釈あれど「文永元年の紺紙金泥の御本尊」の存在認める。


3.48世日量上人記の『富士大石寺明細誌』より
「一、同 紺紙金泥の漫荼羅      一幅
傍書に云はく文永元甲子二月十五日 」
(48世日量上人記『富士大石寺明細誌』富要集5巻336頁)

※此処でも「文永元甲子二月十五日の紺紙金泥の漫荼羅」を大聖人直筆と認識されている。
(「同」とは、「蓮祖真筆」の御文の省略)


4.59世日亨上人編集の『第三、漫荼羅脇書等。』(富要集5巻177-226頁)より
此処には「文永元年の紺紙金泥の御本尊」の記載なし。

※日亨上人は「蓮祖真筆」と認めず、記載しなかったのか。


5.大石寺の本尊 (ウキペディア『大石寺』)より
 A. 日蓮真筆の本尊(戒壇大御本尊以外)
  o 弘安3年(1280年)3月の「師資伝授之御本尊」(「紫宸殿御本尊」との異称は誤謬伝と決判されている。)
  o 建治元年(1275年)11月の本尊
  o 弘安3年(1280年)5月9日南之坊開基の少輔公日禅へ授与の御本尊
  o 弘安3年(1280年)11月本門寺重宝の本尊
 B. 日興真筆の本尊
  o 「御座替本尊」(正応3年(1290年)10月13日書写、宝永3年(1706年)6月15日に客殿安置本尊として模刻造立)
  o 「御手続御本尊」(正慶元年(1332年)11月3日書写)
  o 「御筆止御本尊」(正慶2年(1333年)1月27日書写)
  o 嘉元元年(1303年)8月13日書写、第17世日精が之を謹刻・開眼し六壷に安置するところの常住板御本尊(これと全く同じものが品川区・妙光寺本堂に安置されている。)等
 C. その他の本尊
  o 文永11年(1274年)12月の「万年救護本尊」(大講堂安置の常住板御本尊、真筆は保田妙本寺)
  o 御影堂安置の常住板御本尊(年月日不明、日蓮真筆の本尊を第17世日精が謹刻)
  o 五重塔安置の常住板御本尊(31世日因が寛延2年(1749年)2月28日に書写)
  o 三門安置の常住板御本尊(年月日不明、25世日宥が書写)
  o 典礼院安置の常住板御本尊(66世日達が昭和44年(1969年)1月12日に書写)
  o 納骨堂安置の導師板御本尊(67世日顕が平成16年(2004年)10月に書写)
  o 十二角堂安置の御本尊(年月日不明、56世日応が書写)

※現在では、宗門でも『文永元年の紺紙金泥の御本尊』を公に提示していませんが、どうなったのでしょうか。
大聖人に無関係の「御本尊」である事は、歴史的にも明らかなので、仕方なく取り下げたのでしょうが、それでは「楠板本尊」も同様の筈なのです。


 

日寛上人の御指南より

 投稿者:サム  投稿日:2017年 2月 9日(木)10時15分44秒
編集済
  【日寛上人 御指南】

「吾が大聖人は文永十年四月二十五日に当抄を終わり、弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり(中略)天台・蓮祖は同じく入滅四年已前に終窮究竟の極説を顕わす、寧ろ不思議に非ずや」
 (聖教新聞社発行「日寛上人文段集」451頁上段18行目より)

此の上記の御文で法華講員さんにお聞きしたのが、下記の質問ですが、全く答えて頂けません。
この場で、大勝利さんの御見解を是非、お聞きしたいのですが、如何でしょうか。

①「御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして四年後の弘安五年、御年六十一歳十月の御入滅なり」の御文を正しいとお考えなのでしょうか。
②「入滅四年已前に終窮究竟の極説」とは、何の事なのでしょうか。
③日寛上人は、「戒壇本尊」と称する「楠板本尊」の御相貌を御存知だったのでしょうか。

以上、大勝利さんの御見解の公表、宜しくお願いします。
 

妙法曼陀羅供養見聞筆記より『仏滅年紀』

 投稿者:サム  投稿日:2016年12月 5日(月)19時12分6秒
編集済
  妙法曼陀羅供養見聞筆記より『仏滅年紀』




日寛上人は、「観心本尊抄文段」での主張とは異なる「仏滅年紀」を主張されていますので、紹介します。


一、仏滅後・二千二百二十余年文(一三〇五頁)


問う、御本尊に或は「二千二百二十余年」とあり、或は「二千二百三十余年」とあり。また御書にもこの両説あり。啓蒙二十巻終に具にこれを挙ぐるなり。この両説の相違は如何。
答う。彼の啓蒙の意に云く、諸御書の「三十」は一点の誤りにて、実には「二十余年」なるべし。御本尊の「三十余年」は、御本意の極を定規として遊ばすなるべし。弘安五年まで二千二百三十一年なりと云云。
周の穆王の四十五年甲子、仏の御歳七十二歳にて法華経を説きたまう。同帝五十二年辛未まで八箇年なり。明年壬申二月十五日に八十歳御入滅なり。仏、神力品を説いて上行菩薩に付嘱したまうことは、穆王の治五十年己巳年、仏の御歳七十七歳の時なり。これによって取れば、弘安元年戊寅まで二千二百三十余年なり。弘安二年より三十余年なり。
                        (聖教新聞社発行『日寛上人文段集』736頁)


現代訳:

問います。御本尊の仏滅年紀に、或は「二千二百二十余年」とあり、或は「二千二百三十余年」とあります。また御書にもこの両説があります。啓蒙二十巻の終には具にこれを挙げています。この両説の相違は何故なのでしょうか。
答えます。彼の啓蒙の大意では、諸御書の「三十」は一点の誤りであって、実は「二十余年」なのです。御本尊に書かれる「三十余年」は、大聖人の御本意の極説を基本として図顕されているのです。弘安五年まで二千二百三十一年であると云うのです。
周の穆王の四十五年甲子の時に、仏(インド応誕生の釈尊)は御歳七十二歳にて法華経を説き始めたのです。それから同帝五十二年辛未まで八箇年かけて説かれたのです。翌年壬申二月十五日に、仏は八十歳で御入滅されたのです。仏が神力品を説いて上行菩薩に付嘱されたのは、穆王の治五十年己巳年、仏の御歳七十七歳の時なのです。これによって解釈すれば、弘安元年戊寅まで二千二百三十余年なのです。弘安二年より仏滅年紀は「三十余年」なのです。



御書「妙法曼陀羅供養事」は、文永10年大聖人52歳の御時に千日尼に与えられたとされています。
此処では、観心本尊抄文段での「法華経の寿量品説法からの起算」ではなく、「法華経の神力品付嘱からの起算」ですが、「弘安元年戊寅まで二千二百三十余年なり」は「弘安元年戊寅は二千二百三十年なり」の誤りなのでしょう。
いずれにしても、此処でも日寛上人は「楠板本尊」の御相貌とは、異なる仏滅年紀を主張されています。
これは、どういう事なのでしょうか。



日寛上人の仏滅年紀諸説



和年号       西暦     釈尊入滅   「寿量品説法」説 「神力品付嘱」説

                (紀元前949年説)

文永8年      (西暦1271年) 仏滅後2220年  仏滅後2224年  仏滅後2223年
文永9年      (西暦1272年) 仏滅後2221年  仏滅後2225年  仏滅後2224年
文永10年     (西暦1273年) 仏滅後2222年  仏滅後2226年  仏滅後2225年
文永11年     (西暦1274年) 仏滅後2223年  仏滅後2227年  仏滅後2226年
文永12年/建治元年 (西暦1275年) 仏滅後2224年  仏滅後2228年  仏滅後2227年
建治2年      (西暦1276年) 仏滅後2225年  仏滅後2229年  仏滅後2228年
建治3年      (西暦1277年) 仏滅後2226年  仏滅後2230年  仏滅後2229年
建治4年/弘安元年 (西暦1278年) 仏滅後2227年  仏滅後2231年  仏滅後2230年
弘安2年      (西暦1279年) 仏滅後2228年  仏滅後2232年  仏滅後2231年
弘安3年      (西暦1280年) 仏滅後2229年  仏滅後2233年  仏滅後2232年
弘安4年      (西暦1281年) 仏滅後2230年  仏滅後2234年  仏滅後2233年
弘安5年      (西暦1282年) 仏滅後2231年  仏滅後2235年  仏滅後2234年

  
 

観心本尊抄文段より『仏滅年紀』

 投稿者:サム  投稿日:2016年12月 5日(月)19時08分3秒
編集済
  観心本尊抄文段より『仏滅年紀』





日寛上人の著書、観心本尊抄文段より法華経の寿量品説法からの起算による『仏滅年紀』を紹介します。



問う、本尊問答抄の啓蒙に云く「諸山代代の多く仏滅後二千二百三十余年と云う。是れ元祖の本意顕れ畢る時を常規とする故なり」と云云。これ則ち弘安五年御入滅の年、正しく二千二百三十余年に当る故なり。若し爾らば弘安四年已前は宗祖の本懐未だ顕れ畢らざるや。
答う、今処々の明文に拠るに、正しく弘安元年已後を以て仏滅後二千二百三十余年というなり。故に弘安元年七月の千日尼抄二十五に云く「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」と云云。また弘安元年九月の本尊問答抄に云く「仏滅後二千二百三十余年」(趣意)と云云。また第十六四条金吾抄、第十七大陣破抄、また第二十二初心成仏抄等云々。また蒙抄に云く「京の本国寺弘安元年七月の御本尊に二千二百三十余年」と云云。また上総日弁授与の弘安二年四月の御本尊に「二千二百三十余年」と云云。故に知んぬ。弘安元年已後、御本尊即ち顕れ畢ることを。
問う、弘安元年は正しく仏滅後二千二百二十七年に当る。蓮祖何ぞ三十余年というや。
答う、恐らくは深意あらんか。宗祖云く「今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し」等云云。然るに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまで、正しく二千二百三十一年に当るなり。謂く、如来七十二歳より八箇年の間に二十八品を説く。故に知んぬ、一年に三品半を説きたまうことを。故に七十六の御歳、正しく寿量品を説くなり。而して七十七の御歳、神力品を説いて本化に付嘱して、四年後の八十歳の御入滅なり。如来の御年八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年なり。これに七十六、七、八、九の四年を加うる則は二千二百三十一年と成るなり。故に寿量説法の年よりこれを数えて弘安元年に至るまで、二千二百三十余年というか。故に本尊問答抄に云く「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と云云。この文深くこれを思うべし。若し余文の中は多分に従う。故に仏滅後というなり。若し本尊問答抄に「説きおかせ給いて後」といい、新池(尼)抄には「寿量品に説き顕し」という、これを思い合すべし。故に弘安元年已後、究竟中の極説なり。

                 (聖教新聞社発行『日寛上人文段集』451-2頁)

現代訳:

①大聖人の「本尊問答抄」(373頁 弘安元年9月御述作)の
「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」
の御文を受けて、
②質問します。本尊問答抄の啓蒙(作者・本文不詳)の「諸山代代の本尊の多くに仏滅後二千二百三十余年とあり、是れは宗祖日蓮大聖人の御本意が顕れた時を基準とするのです」との記述に対して、弘安五年の大聖人御入滅の年が正しく仏滅後二千二百三十余年に相当するのであれば、弘安四年已前は宗祖の本懐は未だ顕れていないのではないか。
③回答します。今、大聖人の御書にある処々の明文によると、正しく弘安元年已後を以て仏滅後二千二百三十余年とあります。 弘安元年七月の千日尼抄二十五には「仏滅度後すでに二千二百三十余年になり候」(千日尼御前御返事1310頁)とあり、弘安元年九月の本尊問答抄には「仏滅後二千二百三十余年」(趣意)とあり、第十六四条金吾抄(四条金吾殿御返事1181頁 弘安元年9月)、第十七大陣破抄(作者・本文不詳)や第二十二初心成仏抄(法華初心成仏抄548頁 建治三年)も同じです。蒙抄に云く「京の本国寺弘安元年七月の御本尊に二千二百三十余年」(不詳)とあり、日弁授与の弘安二年四月の御本尊に「二千二百三十余年」とあります。だから理解すべきなのです。弘安元年已後の御本尊に顕れていることを。
④更に質問します。弘安元年は(『周書異記』の紀元前949年説では)仏滅後二千二百二十七年に当りますが、どうして大聖人は「三十余年」というのでしょうか。
⑤答えます。恐らくは深い意義があるのでしょう。大聖人は「今此の御本尊は(乃至)寿量品に説き顕し」等と云っており、それに寿量品御説法の年より弘安元年に至るまでが、正しく二千二百三十一年に相当します。釈迦七十二歳より八箇年の間に二十八品を説いているので、一年に三品半を説いた事になります。だから七十六の御歳に寿量品を説いているのです。そして七十七の御歳、神力品を説いて本化の菩薩に付嘱して、四年後の八十歳に御入滅されたのです。釈迦の御年八十歳、御入滅の年より弘安元年に至るまで二千二百二十七年になります。これに七十六、七、八、九の四年を加えれば二千二百三十一年となります。故に寿量説法の年よりこれを数えて弘安元年に至るまでで二千二百三十余年というのでしょう。だからこそ、本尊問答抄に「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年」と云っているのです。この文を深く考えてください。
⑥もしそうならば、その他の文の文意は多数記載の語句『三十余年』に従わなければならないでしょう。故に「仏滅後二千二百三十余年」というのです。もしそうならば、本尊問答抄に「説きおかせ給いて後」とあり、新池(尼)抄に「寿量品に説き顕し」とありますが、これを考察してみてください。だから、弘安元年已後の「仏滅後二千二百三十余年」が「究竟中の極説」なのです。



上記の文で、日寛上人が、弘安元年已後は「二千二百三十余年」が「究竟中の極説なり」と述べておられる事から、日興上人の「御本尊七箇相承」(富要集1巻32頁)中の「仏滅度後二千二百三十余年」書写説の理論的根拠となっている事は明らかです。

然しながら、弘安二年御図顕とされる「楠板本尊」は、仏滅後二千二百二十余年」となっています。

結局、日寛上人御自身は「楠板本尊」が秘蔵の為に真面に見ておられないか、「楠板本尊」の仏滅年紀が変更されているか、のどちらかなのでしょうね。



 

サムさん

 投稿者:大勝利  投稿日:2016年 8月21日(日)20時24分2秒
  話しは変わりますが、以前に、
御本尊の年月と讃文の一覧をどこかに投稿されたことがありましたね。
さ再度こちらにも投稿してもらうとありがたいですが。
 

サムさん

 投稿者:大勝利  投稿日:2016年 8月21日(日)19時59分10秒
  お久しぶりです。
ほんとにたまたま半年ぶりくらいで掲示板を開いてサムさんの投稿を見ました。凄い偶然。

随分古い投稿の紹介ですね。
サムさんはどの辺が興味深いと感じたのでしょうか?
是非論じてみて下さい。
 

曽存の本門寺大堂本尊が日興カ宛身弘安弐年所給大本尊?

 投稿者:サム  投稿日:2016年 8月20日(土)07時33分11秒
編集済
  曽存の「本門寺大堂本尊」が「日興カ宛身弘安弐年所給大本尊」なのでしょうか。


大勝利さん、お久しぶりです。 お元気でしょうか。
興味深い投稿記事がありましたので、転載・紹介します。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/364/1251894673/28
28 :れん:2009/09/08(火) 11:29:36

正中の日代師宛ての日興師置状は、その文献そのものの信憑性の問題で、正中年間には盗難は無く、日順阿闍梨血脈に見える嘉暦の盗難はあったと思います。ただし、万年救護大本尊や本門寺大堂安置の本尊は、日興師時点で紛失した形跡はなく、その後、安房妙本寺・重須本門寺にて、それぞれ継承されているので、嘉暦の盗難で盗難された宗祖御筆本尊は上記を含め程なく見つかり日興師の許に返納されたものと思います。となれば、正中の日代師宛ての日興師置状は、後世日代師門流が、安房妙本寺伝承の万年救護大本尊や重須本門寺伝承の本門寺大堂本尊の所有権を主張するために、偽作した文献である可能性がかなり高いでしょうね。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/364/1251894673/29
29 :れん:2009/09/08(火) 11:40:51

なお、参考までに申し上げれば、御伝土代に記述される“日興上人”上人号授与の本尊ですが、安房妙本寺文書と日向定善寺文書により、重須の本門寺大堂本尊であることが分かっています。もっとも、こちらは安土桃山時代の天正年間の日代師門流の西山本門寺を首謀とする重須重宝の強奪後、西山が乱取りに遇い、所謂る、二箇相承原本と伴に紛失しております。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/364/1251894673/30
30 :犀角独歩:2009/09/08(火) 11:42:43
れんさん

有り難うございます。
日興授与弘安2年本尊の顛末が、明瞭となりました。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/364/1251894673/31
31 :れん:2009/09/11(金) 10:22:32

参考までに、重須の本門寺大堂本尊裏書きに関する史料を提示しておきます。

保田日要師御談・法華本門開目抄聞書
「聖人の御正筆富士におはしますなり。其の御筆に此の本尊は日蓮一期の大事なり、日興上人に授く、血脈の次第は日蓮日興云々」
安房妙本寺文書・本門寺大堂本尊裏書写
「本門寺大堂本尊裏書云、日興上人授、此本尊、日蓮大事也、日蓮在判。日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判・日妙授与」(千葉県の歴史・資料編中世3の妙本寺文書の一四二号・二四三号・二八一号)
定 善寺文書・日蓮付属状写「釈尊五十年説法、相承白蓮阿闍梨日興、可為身延山久遠寺別当、背在家出家共輩者、可為非法衆、弘安五年十月[ ]日蓮在判、武州 池上。本門寺大堂本尊裏、日興上人授、此本尊、日蓮大事也、日[ ]日興御自筆裏書云、正中二年十月十三日、日興在判・日妙授与」(宮崎県史・定善寺文書 四号・五号)

なお、定善寺文書所収の写本の末尾には「御正本富士日浄所持也」(重須六代日浄師のこと)とあり、重須日浄師の時代、室町中期に写本せられたことが分かります。本門寺大堂本尊裏書は二箇相承と一具に書写されているので、二箇相承はやはり本門寺大堂本尊裏書の「正中二年(中略)日興在 判・日妙授与」の文言とともに、本来、日蓮-日興-日妙の正統を主張する為の文献であることは明らかですね。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/364/1251894673/35
れん:2009/09/11(金) 16:35:43
犀角独歩さん

本門寺大堂本尊は、安土桃山時代に紛失してしまい、二箇相承のように、漫荼羅そのものの写本すら残らないので、石山の彫刻のように真偽の鑑別はもはや出来ないのですが、取り敢えずは、日順が摧邪立正抄で引用し、石山日時も御伝土代で触れ、保田日要も日蓮御正筆として疑義を挟まなかった弘安二年・日興授与・上人号本尊(本門寺大堂本尊)が、安土桃山時代に西山に強奪され紛失の憂き目に遇うまでは、重須本門寺に存在したということだけは確かな史実だということですね。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/364/1251894673/36
36 :犀角独歩:2009/09/12(土) 14:44:48
れんさん

有り難うございます。「本門寺大堂本尊」はあったということなのですね。
この点につき、特に疑義を挟むつもりはないのですが、それにしても、日代がスポイルされ、さらに紛失に係る記事が偽書である『二箇相承』と共に語られると、読む側としては過敏になりますね。
すでに逸した資料の真偽の見極めを、考証からなすことはなかなか難しいことであると思いました。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/364/1251894673/37
37 :れん:2009/09/12(土) 19:03:06
犀角独歩さん

先の投稿で、うっかり引用し忘れておりましたが、重須歴代直筆の古文書では第六代日浄の“日国宛譲状に「譲渡本尊聖教之事/本門寺御堂之御本尊・御棟札・ 御念数已下、如目録無一分も所残常□日国エ寂仙坊日経其外宗徒檀方為証人譲渡処也、門徒一准可被此旨也、仍為後証之状如件/明応三年甲寅九月十三日 日浄 (花押)」

とあり、文中の「本門寺御堂之御本尊」は、やはり、保田妙本寺文書・日向定善寺文書に見える、保田日要が法華本門開目抄聞書で肯定引用した所謂る本門寺大堂本尊と同一のものと思われます。
漫荼羅そのもの、また、裏書が日蓮の真筆か否か、その真偽は、最早、藪の中ですが、少なくとも、重須本門寺で、信仰の中心として、且つ本門寺根源(戒壇?) 安置の本尊として用意していたのが、本門寺大堂本尊=本門寺御堂之御本尊ということでしょう。
こうした室町中期以降の富士日興門流諸本山の思潮が、やがて石山が独自の“戒壇本尊”つまり初代彫刻を作成するに至った下地にあるものと愚考致す次第です。


 

大勝利さんの掲示板ですか

 投稿者:鈴音  投稿日:2016年 4月14日(木)07時40分58秒
  安保と公明党のことで勉強していましたが
最近はどうされていますか?

またいろいろと勉強させてください。
 

代々木本部執行部へ

 投稿者:大勝利  投稿日:2016年 3月 9日(水)22時46分15秒
  代々木本部執行部へ

私から保育園が足りず入園できない「待機児童」の問題提起について、代々木本部のみなさんにご意見申し上げたい。

まず、・その吉良よし子議員、貴女の怒りのほどは荒々しい鼻息からお察し申し上げますが、夫婦ともに党議員で高額所得者であらせられる貴方のような先生が保育園に無理やりねじり込もうとするから、多くの庶民のが入れなくなるのでは?と思います。
多くのママは知っています。
貴女が保育園落ちたの年収1000万超えてるからだと。

保育園落ちたの私だ!と組織的デモを扇動しておられるようですが、保育園設置という地方自治体の責務である保育問題で政府を呪っても金も時間も票は降って来ないでしょう。
「誰が書いたか分からないものを国会で取り上げるな!」
どこの誰かが書いたかも分からない文章に感情移入する前にで、まともな政策議論の国会をお願いします。
山尾、お前もだよ。
 

サムさん

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年11月12日(木)21時44分56秒
  ②について、

「大御本尊」という語句表現は、創価学会、日蓮正宗ともに、「弘安二年十月十二日の戒壇之大御本尊」を指します。

保田万年救護は「大本尊」と書かれており、「大御本尊」とはなっていません。
大曼荼羅に関しては多数存在します。

日順の本門心底抄に記述の、「大御本尊」は、弘安二年の戒壇之御本尊の事ではないでしょう。
ご存知とは思いますが、日順は北山本門寺(重須)の学頭ですので。
私見ですが・・・、おそらくは、目連勧請の西山本門寺蔵の真筆32-2番の御本尊

建治二年二月五日
懸本門寺可為 万年重宝也

日興祖父河合入道申与之
大宅氏女嫡子 大法師譲与也
入道孫由五郎入道女 所譲得也
 

サムさん

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年11月12日(木)20時20分47秒
  ※①今までに「本門戒壇の本尊と称される楠板本尊」が、「一閻浮提総与の御本尊」であり、その他の大聖人御真筆の御本尊は「一機一縁の御本尊」と宗門では区別していましたが、大聖人の御書からその様な御文は見出せません。
日蓮大聖人の仏法は、一切衆生救済の仏法なのです。 従って、大聖人の御本尊に連なる全ての本尊、「本門の本尊」は強いて言うなれば、「一閻浮提総与」であり、「万機万縁」の御本尊であると推考されます。※

まず貴方は何を仰りたいのさっぱり判らん。
投稿の表題で、「表現について」と題していますが、①の内容は、表現についてを問題にしているのか?
本質として「一機一縁の御本尊」と言いたいのか不明です。

すべての本尊が一閻浮提総与であるなら、「一機一縁の御本尊」は存在しないと言いたいのですか?
それとも、「一機一縁の御本尊」との表現はこれからは使用しないようにしよう。・・と言いたいのですか?

法華初心成仏抄をよくお読みになったらいかがでしょうか?
「「日本一州円機純一にして朝野遠近同く一乗に帰し緇素貴賎悉く成仏を期せん」云云、此の文の心は日本国は京鎌倉筑紫鎮西みちをく遠きも近きも法華一乗の機のみ有りて上も下も貴も賎も持戒も破戒も男も女も皆おしなべて法華経にて成仏すべき国なりと云う文なり」

大聖人は、日本国一同に「強いて」南無妙法蓮華経の五字を弘めよと仰ってるではありませんか?

 

大勝利殿

 投稿者:憂国の武士  投稿日:2015年10月31日(土)16時54分34秒
編集済
  ?


 

「一閻浮提総与」と「大御本尊」

 投稿者:サム  投稿日:2015年10月30日(金)22時00分2秒
編集済
  「一閻浮提総与」と「大御本尊」との表現について

「弘安2年10月12日に御図顕され本門戒壇の本尊と称される楠板本尊」が後世模作であると判明した現在でも、私は、「御本尊への報恩感謝」のご祈念文の中での
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。」
は、全く変更する必要は無いと考えています。

①今までに「本門戒壇の本尊と称される楠板本尊」が、「一閻浮提総与の御本尊」であり、その他の大聖人御真筆の御本尊は「一機一縁の御本尊」と宗門では区別していましたが、大聖人の御書からその様な御文は見出せません。
日蓮大聖人の仏法は、一切衆生救済の仏法なのです。 従って、大聖人の御本尊に連なる全ての本尊、「本門の本尊」は強いて言うなれば、「一閻浮提総与」であり、「万機万縁」の御本尊であると推考されます。

②次に「大御本尊」の「大」とは、対象物の物理的大きさだけを言うのではなく、その事象を讃嘆する場合にも用いられるのが通常です。

だから、当然ながら、保田妙本寺蔵の大聖人御真筆の万年救護本尊の讃文には以下の様に「此の大本尊」と明確に書かれています。
「大覺世尊御入滅後經歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ケ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之
我慈父以佛智隠留之爲末代殘之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」

上古の上人方も同様に使われているのです。

日順上人記、本門心底抄では、
「大聖云はく既に諸仏の本意を覚って早く出離の大要を得たり・其れ実には妙法蓮華経是れなり、又云はく・仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり、朝には低頭合掌し・夕には端坐思惟し・謹んで末法弘通の大御本尊の功徳を勘ふるに、竪に十界互具現前し・横に三諦相続明白なり」(富要集2巻31頁2行)

堀日亨上人の著書にも「大本尊」と明記されています。
「故阿仏房の法花経の信にあらわれさせ給ひて北海の惣導師に遊ばし大本尊賜はり候とうけ」(富要宗8巻146頁)


従って、繰り返しますが、我々の勤行要典にあるご祈念文、
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。」
は、全く変更する理由は無いと考えます。


 

(無題)

 投稿者:テスト  投稿日:2015年10月27日(火)22時40分36秒
編集済
  テスト

http://

 

ノーベル平和賞 最終候補9人に

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年10月 8日(木)21時56分14秒
  CNNの報道
http://edition.cnn.com/2015/10/07/world/nobel-peace-prize-names-2015/



Philosopher Daisaku Ikeda is leader of the Japanese Buddhist group Soka Gakkai International.

Daisaku Ikeda is president of the Japanese Buddhist group Soka Gakkai International and a philosopher, writer and educator.

The lay group says it is dedicated to revitalizing Nichiren Buddhism and its "legacy of Buddhist humanism."

"SGI members are committed to promoting the importance of peace and the ideal of respecting the dignity of life and human rights through various activities, such as through holding exhibitions about the threat of nuclear weapons or humanitarian relief activities," the group's website says.

Ikeda also founded the nondenominational Soka school system "based on an ideal of fostering each student's unique creative potential and cultivating an ethic of peace, social contribution and global consciousness."

Soka Gakkai International says: "In (Ikeda's) view, global peace relies ultimately on a self-directed transformation within the life of the individual, rather than on societal or structural reforms alone."

The group quotes one of Ikeda's writings: "A great inner revolution in just a single individual will help achieve a change in the destiny of a nation and, further, will enable a change in the destiny of all humankind."
 

太ちゃんさん

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年 9月28日(月)20時20分59秒
  ※ ところで、「如清涼地」について調べているのです。
去年の大白4月の巻頭にある「常楽我浄」について意味を調べていて、最後の「浄」は調べても他宗のものしかヒットしないようでしてf^^;※


太ちゃんさん。
返事がかなり遅れてしまいました。申しわけないです。

「如清涼地」は、「如清涼池」の方が経典一般には多く使われているので、地ではなく池で調べたほうがヒットするでしょう。

法華経薬王品も「如清涼池」です。

「常楽我浄」は涅槃経に多く出てくる言葉です。
大聖人も使われております。
諸行は無常ではなく、実には「常楽我浄」であると観ることが出来るとのお立場であると思います。

御本尊の四菩薩
無辺行 = 常 → 常住此説法
安立行 = 楽 → 我此土安穏
上行 = 我 → 自我得仏来
浄行 = 浄 → 如清涼池

と配当して、「常楽我浄」を表していますね。
 

かなり遅くなりすみませんm(__)m

 投稿者:太ちゃん  投稿日:2015年 9月13日(日)21時31分59秒
  丁寧な返信を頂いておきながら、なんとなく返信しそびれてました。
ごめんなさいm(__)m
そしてありがとうございますm(__)m

ところで、「如清涼地」について調べているのです。
去年の大白4月の巻頭にある「常楽我浄」について意味を調べていて、最後の「浄」は調べても他宗のものしかヒットしないようでしてf^^;

まぁ御義口伝の通解で該当部分のコピペすれば言葉の上では書くことはできることだけど、それだと「生命で納得」というところにはどうにも「ピン」と来るまでに話せないというかf^^;

この巻頭の最後辺りは、今の学会を憂いての先生の大切なメッセージではないかと感じているんです。

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

のび太さん

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年 9月10日(木)14時00分16秒
  お世話になります。

仰る通りです。
ただ私は、創価大学内での宮田氏の発表は、いまのところ宮田氏の個人的見解として捉えています。

もっとも気になった部分は、

池田は仏教学の学問的発表が行なわれるたびに右往左往していた。

五時八教は学問的に間違い。

大聖人をお手本として行く。

等々ですかね。

私はこの人に倣うことはありませんし、教学を変えることはありません。

50年、100年という長いスパンで考えた時に、創価学会の教学が引きずられることになるだろうことを危惧すます。
 

宮田発言

 投稿者:のび太  投稿日:2015年 9月 9日(水)11時54分57秒
  お久しぶりです。

8月4日の私の投稿が喜劇になってしまいました。(笑)

現宗研(身延派)= 創価学会

ですね。

寿量文底独一本門 を否定(日寛教学を放棄)

     ↓

弘安二年の位置づけを否定

     ↓

久遠元初の否定 (久遠実成と始成正覚だけ)

     :  (つぎに起こることは?)
     :

日蓮本仏論の否定



 

m(_ _)m

 投稿者:見込みない人びと  投稿日:2015年 8月31日(月)12時44分16秒
  大勝利さん、
長崎の記事アップありがとうございます。
全文を探してました。やっと読めた。
 

池田名誉会長長崎新聞2015年8月3日寄稿

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年 8月17日(月)16時24分53秒
  長崎新聞寄稿  

のび太さん

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年 8月12日(水)13時23分50秒
  その節は大変お世話になりました。

また、こちらにおいでの機会があれば是非御一報下さい。

インターネット上で、一人一人が言論を行なうことは有意義であると考えてます。
気が向きましたら、こちらにも御投稿いただければうれしく思います。

敬具
 

大勝利 さま

 投稿者:のび太  投稿日:2015年 8月 7日(金)10時59分52秒
  そうでうす。

熱原のとき以来、ネットでご意見は拝見しています。(笑)

最近は、ポドチョン(黄)、宿板に出てますね。

オチャメなギャグはやらないのですか? (笑)

なつかしく拝見しております。

盛夏、お身体をご自愛ください。
 

のび太さん こんにちは。

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年 8月 6日(木)10時11分43秒
  のび太さんって、昔、静岡で一度お会いした事のあるHNのび太さんですか?
その節はお世話になりました。
 

一見の客

 投稿者:のび太  投稿日:2015年 8月 4日(火)18時53分37秒
  この板ではお初です。(笑)

(六)日寛の本尊論は、三秘を一秘に集約した本門の題目論ではなく、本門の本尊を一秘と規定しました。三秘を集約すれば、本門の題目の一秘になるのは祖意であり、日蓮門下共通の見解です。<日蓮宗現代宗教研究所>

教義の変更によって、この程度の論難すら破折できなくなるんですね。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/02/02_060.htm


 

太ちゃんさん

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年 7月26日(日)15時39分36秒
  ※この動画って宗門の「C作戦」の後ではないですよね?
c作戦の遥か以前のものなのに、なんだかC作戦後の先生の話のように錯覚しそうでしたf^^;※

戸田先生が亡くなられたのが昭和33年4月2日。

この5日ほど前に、的場正順と言う大石寺の所化頭(当時33歳)である人物と、大石寺内にて
池田先生を中心とする学会青年部との諍い、いわゆる「的場事件」が起こりました。
所化頭の御僧侶であろうと学会青年部として注意すべきは断固として行なうと言うことですね。

戸田先生の亡くなられた翌日の本部幹部会での池田先生のスピーチ、
それが有名な「追撃の手をゆるめるな」です。

https://youtu.be/sTePdMTNrUE

この時代に「追撃の手をゆるめるな」と、大石寺の中の悪僧に対峙する事を戸田先生が仰られたのですから、C作戦後の池田先生の指導に錯覚しそうになるのは無理もないですね。

このひと月前、昭和33年3月1日には、
戸田先生は、

「敵は内部だよ。」

と指導されています。
これは龍年光が自分で書いてることでもあるので間違いないですね。

ですので昭和33年5月3日第18回春季総会で池田先生は、

「宗門の中にも、創価学会の中にも、況や外敵においては、会長先生が亡くなったことを喜び、または安堵の胸をおろし、または反逆の心をおこし、蠢動するような者があったならば、これ広宣流布を乱し行く天魔の所為として断固粉砕して行くことが学会幹部のあり方である」

と宣言されたのだと思います。
 

ありがとうございます

 投稿者:太ちゃん  投稿日:2015年 7月26日(日)00時47分10秒
編集済
  ん~と、『会長先生』という呼称に、戸田先生時代の学会員さんの心境が伺えるというか。
例えばですが、公明党議員さんの誰かを『議員先生』と呼ぶようなのと近い感覚の学会員さんが多かったように感じられてしまうんです。

もちろん、大きな感謝の意味合いで、『会長+先生』とダブルの呼び方をしていた人もいるのでしょうけれど、感謝ではなく、利己目的の「ゴマスリ」の目的での『会長先生』と呼んでいた学会員さんも多かったのではないかと感じられたのです。
事業の失敗をした際に、多くが裏切った事実を『会長先生』という呼称から見えた感触があって気になったものですから。

それで、参考になる動画ありがとうございます。
動画を視聴しながら最後のほうで、いつのものか確認して「あれ?」と感じました。
この動画って宗門の「C作戦」の後ではないですよね?
c作戦の遥か以前のものなのに、なんだかC作戦後の先生の話のように錯覚しそうでしたf^^;

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

太ちゃんさん

 投稿者:大勝利  投稿日:2015年 7月25日(土)16時33分39秒
  おそらく普通だったと思います。

昭和33年5月3日第18回春季総会での池田先生のスピーチ
https://youtu.be/-D6xcMosGFQ

創価教育学会の流れで「先生」と呼ぶ伝統があったのではと思います。
池田先生の会長時代、「辻先生」とか「大泉先生」等の呼称のスピーチもあったと思います。
当時、基本的にはひとつの「敬称」として、普通に「先生」と使われてたのではないでしょうか?
今の「先生」語への思い入れとは、若干、温度差があるかも知れませんね。
 

質問があります

 投稿者:太ちゃん  投稿日:2015年 7月25日(土)01時16分49秒
  戸田先生の時代には、戸田先生を『会長先生』と呼ぶのが普通だったのでしょうか?

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

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